写真家 森山大道氏の狙いは「アレ・ブレ・ボケ」ではなく「脱私」だったのかもしれない

日経14.02.24夕 森山大道、再び沖縄を撮る

…当時の守山の写真を特徴づける粒子の荒い画面…

デジカメのクリアな画面なので、74年の白黒写真と比べると一見違った印象を受ける。だが写真家が興味を引かれてレンズを向ける対象は変わっていないことがわかる。情緒を排した、眼前の光景だ…

「僕のスタンスは今も昔も同じ。流れ者の視線で、目に見える表層だけを撮っている。いくら心情や美学を込めてもそんなものは写らない。表層がすべてというしたたかさが写真にはある」…

表層をとらえれば、政治も経済も人間の暮らしも、すべてがおのずからにじんでくるのではないか…

「野良犬や野良猫のようにほっつき歩きながら」撮っていく。シャッターチャンスを狙って一つの場所で待つことはしない。「待つというのは予定調和なイメージを期待すること。そうじゃなくて、撮るべき一瞬に自分から出会いに行く…

何が写っているのかも分からない異様なイメージが続く作品集「写真よさそうなら」(72年)を発表…

「最終的に作者が抜けて、被写体だけが残るのが写真」。森山はそう話す…

作家の大竹昭子は「森山さんの写真には『写真とは何か』という問がある。彼の作品について考えれば、写真という表現の深層に触れることができる」と語った…

(文化部 千場達矢)

日経記事より
なんじゃこりゃ?かっけー

森山大道氏は自分的には「アレ・ブレ・ボケ」の写真家ということで記憶されていた。

琴線探査: 「写真とは真を写すものではまったくない」そして「アレ・ブレ・ボケ」 | はてなの芸術十選 4 アートディレクター 長澤章生 - 日経

しかし、最近ではデジカメを使い、クリアな写真を撮っておられるようだ。

ということは、「アレ・ブレ・ボケ」は「狙い」ではなかったということなんだろう。単なる技術的な制約だったんだ。

本当の「狙い」は「最終的に作者が抜けて、被写体だけが残るのが写真」だったようだ。ぶっきらぼうにただ、撮っていく。自分を表現しようとはしない。

つまり「脱私」。これが「狙い」だったのではないだろうか。

森山大道氏は山口の人らしいね。あとアラーキーも山口の人らしい。山口県立美術館に作品があるようなので、今度行ってみたい。

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