映画「フレフレ少女」でわかった応援団を好きな理由

昔から「応援団」という人たちが大好きだった。

それがなぜなのか、自分でもわからなかった。あの滑稽なまでの真剣さやチカラの入り方・・・一体なんなのか。

しかし、最近テレビでやっていたガッキーこと新垣結衣さん主演の映画「フレフレ少女」を見て、自分なりに理解できた。

「わたしも頑張らないと、人に頑張れなんて言えないですよね」
だから応援団の訓練は厳しいのだろう。

「だけどなぁ、団長ってのは常にカッコつけねーとなぁ」
ミエやプライドを忘れがちだが、実際の利益を失ったとしても、これらを守るためにやせ我慢することが「頑張る」ことの一つなのかも。これは押して忍ぶ「押忍」の精神そのものだ。

「私たちまだ誰のことも応援してないよ。誰のこともきちんと応援できてない。応援って、すごく辛くて、大変で、頑張らないとできないことなんだと思う。」
他人を応援する・・・これすなわち自分を応援すること、ということなのだろう。情けは人のためならず、ということでもあるだろう。

「失礼をいたしました。前言を撤回いたします。」
どんなにひどい事を言っても、悪かったと思えば潔くすぐに謝ることが大事だと思った。逆にそれが信頼につながる事もある。「失礼をいたしました」という言葉は魔法の言葉だ。人としてのあり方を常に問うことも「頑張る」ことの一つなのだろう。

「私たちの熱意と気合が足りないんだよ・・・押忍・・・足りないんだよ!!・・・押忍!!!」
決して人を責めず、まず自分を責める。徳川家康の言葉にもある「己を責めて人を責むるな」。

「僕らが野球部の応援をしたら、野球部は僕らの応援をしてくれるんですか?見返りを求めない応援だから力になるんです!」
「見返りを求めない応援」とは誠の愛の放射のことだろう。これが「滅私応援」ということなのだろう。

「諸君!今は2対0で2点差だが、2は四捨五入したらゼロだぁ~!つまりまだ0対0の同点!」
苦しい時は、屁理屈や詭弁も重要だと思った。これがユーモアとなり、笑いの力がこれ以上頑張るのは無理だという限界を押し広げることになる。


応援とは誠の愛の放射の事であり、それは精神的にも肉体的にも大変な事だ。だから応援団の人々は滑稽なほど真剣で、チカラが入っているのだろう。

つまり応援団とは誠の愛を放射する人間の集まりであり、これが自分が応援団を大好きな理由だったのだ。

コメント

  1. そうですね。応援って、人類にしかできないとっても高尚な活動のような気がします。見返りを求めずベストを尽くすことは、マザー・テレサの言葉にまさに通じますよね。

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